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アルバート・ハモンドの青い空 その3

3 アメリカ(1971-1973)

イギリスでの最も成功したソングライティング・チームとなり、アルバートとマイクは新しいチャレンジを探す必要があると感じるようになりました。そしてアメリカを目指すことにしたのです。派米良と二人の小さな娘(Debbie *1967, Paula *1970)はあと2年の間イギリスに留まります。

マイアミに到着して二日後、ロサンゼルスへ向け西行きの747に乗りました。そこで彼らは最初にKnickerbocker Hotelに宿をとり、後にアパートを借りました。(政府の政策で)一年間に50ポンドしかイギリスから持ち出すことが許されていなかったために、彼らは一から再び始めなければなりませんでした。

彼らはすぐに、イギリスを発つ前に書いていたブロードウェイショーを金銭的にサポートしてくれる人を探しました(“Welcome home”, script by Michael Weller)。アルバートはしばしば俳優のアンソニー・クィンと通じており、彼は一線のものを演じるものと周りから思われていました。しかし、ショーの製作者は年の途中でお金が尽き、すべては無に帰してしまいます(このショーのために書かれた何曲か、「The Free Electric Band」が最も有名ですが、アルバートのソロキャリアの中で使われました)。

お金が必要だったことから、アルバート・ハモンドは彼の歌を可能な限りのレコード会社でプレイすることを決意し、Hal LandersとBobby Robertsが新しく立ち上げるMumsレーベルにおいて彼と最初のアーティスト契約を結ぶまで続けました。この契約にはLanders-Roberts Musicとの出版同意も含んでいます(マイクのものも)。

CBS代表のClive Davisの前でのオーディションを経て、Landers and Robertsと30人以上の人々がアルバートに出来るだけ早くデモを何曲か頼むことになりました。

「Down By The River」、「The Last One To Know,」、「The Air That I Breathe」、そして「If You Gotta Break Another Heart」が最初に試された4曲です。アルバートはリズムセクションにサポートされ(ギタリストは友だちのJay Lewis、そして何人かのロサンジェルスの最も権威あるミュージシャンたち: Larry Carlton (guitar), Joe Osborn (bass), Hal Blaine and Jimmy Gordon (drums)そしてアレンジャーとしてMichael Omartian (keyboards))。Clive Davisは結果に興奮し、その結果アルバートを「It Never Rains In Southern California」というアルバムで知られることになるレコーディングを終わらせるために呼び戻しました。(4曲のデモは既に素晴らしかったので彼らは再びレコードする必要もありませんでした。いくつかのオーバーダブを経てそれらはマスターとして使われたのです。

この二週間ほどで録音されたアルバム「It Never Rains in Southern California」は72年の終わりにリリースされました。最初のシングル「Down By The River」が好意的に受け入れられた後、第二弾シングルはアメリカチャートの5位まで上がりました。その曲が「It Never Rains In Southern California」でした。
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